【祈りの歌】ブラックミュージック

こんにちは!

スワブ工房HP担当の山ちゃんです。n(*´▽`*)y

今回はジャズのルーツにもなった「ブラックミュージック」について解説していきたいと思います。


そもそもブラックミュージックとは何か?


ブラックミュージック (black music) あるいは黒人音楽(こくじんおんがく)とは、アメリカの黒人発祥の音楽の総称を表す言葉。

ー引用ー
「”ブラックミュージック”」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
“最終日付(更新日付)” 2021年8月10日 (火) 05:36 UTC
URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF

ウィキペディアにはブラックミュージックについて上記のように解説されています。


ブラックミュージックの歴史


ブラックミュージックには悲しい歴史があります。

それはブラックミュージックが、奴隷として強制的にアメリカに連れてこられた黒人たちによって生み出された音楽という点です。

奴隷として連れてこられた人々は、故郷の言語・文化・人権・アイデンティティ 全てを奪われました。

その結果、家族とバラバラになったり、別々の部族同士で過ごすことになったりもしました。

また、奴隷で集まって反乱を起こしたり、反乱時の連絡手段として使われないようにするため、英語を覚えたり勉強したりすることも禁止。

そして彼らの文化の1つである、リズムを奏でる行為や、パーカッションの所有さえも反乱防止を理由に禁止となってしまいました。


厳しい黒人奴隷の世界とブラックミュージックの芽吹き


全てを奪われてしまった、当時の黒人奴隷たちに出来ることといえば..

雇い主の命令に笑顔で従うこと、仲間と共に働くためのジェスチャーや、掛け声を出すことしかなかったのです。

悲しいし、とても辛い環境ですよね。

しかし、19世紀ごろに大きな変化が訪れます。

その変化とは、キリスト教の布教体制の変化です。

当時の白人にとっては当たり前ともいえたであろうキリスト教は、当時の黒人たちには布教されていませんでした。

何故なら、キリスト教には黒人たちの雇い主である白人にとっては都合の悪い「神のもとでの平等」という教えがあったからです。

そのため当時の白人雇い主は、黒人奴隷にはキリスト教の布教をワザと行っていなかったのです。

しかし、その事実を知ったキリスト教会側は「奴隷に対してキリスト教を布教しない雇い主の行動は神への反抗である」と見なしました。

そして、キリスト教会側は黒人たち向けの布教活動として「キャンプミーティング」と呼ばれる大規模な集会を開催します。

その結果、黒人奴隷たちは聖書の言葉を耳で聴くことによって共通言語となる英語を覚えることが出来ました。

※もちろん当時のキリスト教側の布教活動にも「宗教的に奴隷制を否定しないことで、より主人に忠実な奴隷にさせることが出来るだろう」という黒人差別的な思想が存在していたというのは言うまでもありませんが…

こうして彼らが元々持っていた、優れた音楽の才能と学んだ言語をいかすことで『黒人霊歌』と呼ばれる最初のブラックミュージックが産まれたのです。

ブラックミュージックの芽吹きには、黒人奴隷として連れてこられた彼らが経験した「悲しみ・祈り・強さ」が沢山ありました。

そして..

その苦しい経験は、のちに「音楽」というジャンルにおいて大きく花開くことになるのです!


ナットタナーの反乱と黒人霊歌


キリスト教の大規模な布教活動は成果を上げ、いよいよ黒人たちの間にも広くキリスト教の教えが広まって来たころ..

とある農園に奴隷として働く「ナットタナー」という優秀な青年がいました。

彼は読み書きが達者で、聖書の内容にも詳しい頭のキレる人物でした。

しかし、頭の良かったナットタナーは、協会側が語る(まるで奴隷制を肯定するような)【教え】に納得できずにいました。

そう..彼はあまりにも賢すぎため、教会側の【教え】には「奴隷制を正当化させるための布教活動」という側面があることに気づいてしまったのかもしれません

そして、ナットタナーは28才のとき「神から奴隷を解放するようにとのお告げがきた」として【アメリカ史に残る大反乱】を起こしました。

元々ナットタナーには高い指導力・カリスマ性があり、指揮官としての素質があったこと。

また、熱心なキリスト教信者でもあったため反乱の動機が「神の啓示」に基づいていたこともあり、ナットタナー自身も反乱時の仲間も「これは聖戦である!」と言わんばかりに、自身の死も恐れない戦いを繰り広げたといいます。

その結果..この反乱では死をも恐れぬナットタナーらの鎮圧のために軍隊を派兵するなどアメリカを揺るがす大事件となってしまいました。


キリスト教の礼拝禁止令と黒人霊歌のダブルミーニング


ナットタナーの反乱後、各地の農園では黒人奴隷がキリスト教の礼拝を行うことは反乱防止のために禁止になりました。

しかし、この「黒人奴隷のキリスト教の礼拝禁止令」というのは、キリスト教徒に対する迫害となるわけで..神への反抗になってしまうのです。

そうです..皮肉なことにも、この礼拝禁止令こそが『神のもとでの平等』という教えの存在証明にまつわる根拠となってしまったのです。

【-解説- 「神のもとでの平等」の美点と欠点】

キリスト教は「一神教」であるがゆえ、キリスト教を信じる者は皆平等です。

しかし、それ以外の神を信じる者には手厳しい一面があります。(もちろん、これはキリスト教以外の一神教にもいえることですが..)

そのため、歴史的にも『キリスト教信者 VS それ以外の異教徒(他宗派)もしくは キリスト教迫害者』という宗教的対立構造になりがちな傾向があります。

そして、今回の場合は「黒人奴隷はキリスト教信者側」「白人雇い主はキリスト教迫害者側」という対立構造となります。

その結果として..黒人奴隷側はキリスト教信者同士として協力し、迫害者である白人雇い主からキリスト教を守るために団結します。

裏を返せば「キリスト教は神のもとでの平等を謳ってはいるけれど..キリスト教を信じなかったり、迫害したりする人物たちに対する迫害活動(差別など)は許されるんだ!」という主張をしているかのような..

宗派迫害の被害者が、他の宗派迫害の加害者になってしまう(なっても許される)という構図は、なんとも皮肉なものだなとも思います..(苦笑)

つまり、キリスト教は(一神教)は、「同じ宗派とは団結力が強い」「仲間とチャリティー活動を行ったりする熱心な信者が多い」というメリットがある一方で、他宗派には割と厳しい価値観を持っているという側面も存在している宗派なのです。

ちなみに、仏教などの多神教の場合には「同じ宗派でも団結力は高くない」「違う宗派にも寛容(他の宗派に興味がない)」「チャリティー活動には積極的ではない」など..一神教とは(良くも悪くも)逆の価値観が存在している場合が多いようです。

以上、山ちゃん個人調べ(独断と偏見が大量に入っているかもしれないですが)の解説でした。

黒人たちは、今まで以上にキリスト教を深く学ぶようになり、日中の礼拝をやめ、代わりに夜中に人の居ない山や小屋の中に集まり隠れながら礼拝を行うようになったのです。

そして、キリスト教の教えや聖書の物語、奴隷として扱われている仲間たちへのメッセージを『黒人霊歌』として表現していくようになります。

こうして本格的に始まった黒人霊歌ですが、実際の歌詞内容などの詳細については殆ど記録が残っていないようです。

これには、当時録音技術がなかったことが原因なのではないかともいわれています。

しかし、実際には..

当時の黒人霊歌の歌詞は秘かに集まった黒人たちが歌う、白人に対する過激な反抗のメッセージだったから..なのかもしれません。

すなわち現代に残っている黒人霊歌というのは「残っている」というよりは「残しても問題ない黒人霊歌」という表現の方が正しいのかもしれませんね。

また、黒人霊歌の中の名曲と言われる曲には、いわゆる『ダブルミーニング』がテクニックとして用いられおり、奴隷制度への批判や奴隷からの解放を暗喩しているものもありました。

その後、礼拝禁止令が解除され始めると、キリスト教の布教活動(キャンプミーティング)も再開されました。

再開後のキャンプミーティングには、白人霊歌と黒人霊歌の品評会的な側面もあったといわれています。

そのため、キャンプミーティングに参加した人々は白人も黒人も関係なく、お互いに良い所を盗み合いながら歌唱技術を高めていったと言われています。


ブラックミュージックの発展と自由の代償


さて、厳しい現実の中で必死に生き抜き、歌を通じて祈り続けた当時の黒人奴隷たちの強さを理解して頂けたと思います。

その後、1865年の【奴隷開放】によって、彼らは自由を手にします。

しかし、自由を手にするということは奴隷としての仕事を失って、雇い主の家を追い出されること同義でした。

その結果、黒人たちは解放され自由を得た代償として、さらなる困窮と差別の被害に遭いました。

むしろ経済的には奴隷時代よりも困窮し、再び雇い主に雇われた黒人たちにとっては(生活が困窮していたため行った借金の条件によっては自由な行動を制限される等)奴隷時代と大して変わらない生活が待っていました。

ずっと欲しかった自由を手にしたことで皮肉なことに、彼らは自身の困窮を招いてしまったのです。

しかし、自由を手にしたことで経済的には酷く困窮しましたが、仕事が終わってからの自由時間を少しだけ手に入れることが出来ました。

それまでは、最低限の食事と睡眠以外は全て労働時間となっていたので、思い切り歌を歌えるのは教会で黒人霊歌を歌うときだけでした。

それを思うと、かなりの進歩といえるのでしょうね。

そして、自由時間が出来たことで『神』ではなく『自身』についても歌うことが出来るようになります。

そこから【個人】のための新しい音楽『ブルース』が誕生したのです。

また、当時ブルースが産まれた時代背景として黒人への差別が激化していたということも関係があると言われています。

当時の黒人たちは、州法によって法律的に差別対象にされたり、集団リンチを受けることもありました。

そしてレストラン・劇場はもちろん、水飲み場さえも白人とは分離させられました。

奴隷時代よりも酷い差別です..

それでも、ブルースは黒人たちの悲しみを代弁しながら続きます。

そして..

ブルースの誕生後ブラックミュージックは多方面に枝分かれしながら、その発展の速度を加速させていきます。

まずは、悲しみを表現したブルース。

次に、キリスト教の讃美歌とアフリカのリズムが融合して、産まれたゴスペル。

そして、ジャズ、ロック、ファンク、R&B、ラップ、ヒップホップ..

このように、黒人奴隷の苦労から産まれたブラックミュージックは、現代の私たちが耳にする多くの曲のルーツとなっているのです。


いかがでしたか?

現代では、ロックやジャズといった様々なジャンルがあります。

しかし、そのルーツは『ブラックミュージック』という1つのジャンルから始まっていたというのには、流石の山ちゃんも驚きを隠せませんでした。

また、歴史的な背景なども知ることが出来たので、個人的には調べた甲斐があったなぁと思いました!

それでは、また次回!

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