『薩摩藩軍楽伝習隊(薩摩バンド)とは』

こんにちは!スワブ工房HP 担当の山ちゃんです!

季節は梅雨..私は蒸し暑いのが苦手なので少々しんどい季節です。

さて、前回は『ジョン・ウィリアム・フェントン』についての紹介をしてきました。

そこで、今回は ジョン・ウィリアム・フェントンが指導した、

『薩摩バンド』について紹介していこうと思います


【薩摩バンドとは】


【薩摩藩軍楽伝習隊(通称:薩摩バンド)とは】

日英戦争後の[日英同盟締結]を きっかけに結成された日本初の吹奏楽団です。


薩摩バンドのメンバー数は30名程。

若手の薩摩藩士で構成されていたと伝わっています。

その後、結成された『薩摩バンド』は、派遣先の横浜にて『ジョン・ウィリアム・フェントン』の指導を受けます。


『軍楽伝習生』と呼ばれた彼らでしたが、最初は楽譜が読めないところからのスタートでした。

そんな彼らは、明治3年には英国軍楽隊との共演を果たすなどの活躍をしています!(凄いですよね!)


ちなみに、当時の英字新聞の挿絵付き紙面には『サツマバンド』というタイトルで彼らは取材を受けています。

また、その記事を書いた英国人記者からは「サツマバンド」は優秀だ!と高い評価を得ていました!



【薩摩バンドが使った楽器とは】


日本初の吹奏楽団である薩摩バンドには当初吹奏楽に必要な楽器がありませんでした..。

そこで、楽器練習の際は【竹・鋳物で作成された楽器】を使っていたと言われています。

ちなみに【竹・鋳物で作成された楽器】を作っていたのは、江戸・横浜にいる職人だったと言われています。


その後は薩摩藩主の力添えもあり、

イギリス・ロンドンにある楽器店に新品の楽器を注文しています。

ちなみに、注文した楽器の価格は 1500ドル/1セットであったと言われています。(現代の1500ドル=約17万円)


【薩摩バンドが遺したもの】


薩摩バンドが遺したものといえば..。

日本の【国歌・君が代】でしょう。


君が代が日本で始めて演奏されたのは、東京深川での軍事訓練の際と言われています。

その軍事訓練の際に『薩摩バンド』が、明治天皇の前で【君が代】を演奏したのが最初でした。


そう、『薩摩バンド』と【君が代】には切っても切れない縁があるのです。

そもそも、当時の日本人には「国歌」という概念がなかったといわれています。


それでも「国歌」を制作した理由は..

当時のイギリス女王の次男が来日することが決まって、来賓を迎える儀礼音楽が必要になったこと

薩摩藩の武装が英国式になっていく中で、「軍楽隊」を作っておこうという考えがあったこと

 【国歌・君が代】の制作背景には、これらの政治的な事情もあったのではないかと考えられます。


ちなみに、君が代の[歌詞は薩摩琵琶曲の蓬莱山の一節]から選ばれており、

君が代の[作曲は薩摩バンドを指導したジョン・ウィリアム・フェントン]です。

作詞・作曲の面からみても『薩摩バンド』と【君が代】の縁深さが分かると思います。


薩摩バンドが演奏した【初代・君が代】


薩摩バンドが演奏した【君が代】は【初代・君が代】だと知っている人はどれ程いるのでしょう。

そう、現在使われている【君が代】は【2代目・君が代】なのです。

初代・君が代はフェントンが作曲しましたが、日本語の分からないフェントンが作曲した曲は周りからは大変不評でした。

(不評の原因は歌詞と曲調のミスマッチだったと言われています。)


そこで【2代目君が代】が、新たに作られたと言われています。

ちなみに、現在では鹿児島県警と地元の方々が協力した結果【初代・君が代】の音源は復元がなされており

一般人でも【維新ふるさと館(鹿児島市)】で、忠実に再現された【初代・君が代】の音源を聞くことが出来ます。


いかがでしたか?

今回は ジョン・ウィリアム・フェントン が指導した【薩摩バンド】について詳しく紹介してきました!

ジョン・ウィリアム・フェントン と 薩摩バンド..

彼らから始まった日本の吹奏楽は、今でも多くの人々に良い影響を与えています。

今回はここまで、また次回お会いしましょう!

(*^▽^*)/

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